紫微斗数

放光菩薩

北宋の常謹が端洪二年(九八九)に撰述した『地蔵菩薩像霊験記』には、地蔵菩薩の画像や彫像にまつわる感応故事や不可思議な功徳譜が三十二則収録されているが、その冒頭の「梁朝善寂寺善一地蔵放
光之記」は、梁代の画家張僧舘が措いた地蔵菩薩観音菩薩の壁画にまつわる記事である。舞台となった漠州善寂寺は、四川の徳陽-成都の北方六十キロにある地方都市の寺院で'並列して描かれたとみられる両菩薩像は、度々放光の奇瑞をあらわしてさまざまな功徳を垂れ、「放光菩薩」と称されたという。

日本横浜鶴見区總持寺にも放光菩薩(ひかりかんのん)像は龍王池のほとりに立っていた。丹塗りの橋、湖上に浮かぶ蓮の花、吹上台からの緑風、 水面にうつる観音像は得も言えぬほどに美しく、龍王池のほとりはさながら極楽浄土の風情を 漂わせていたという。が、諸行は無常なり。戦争の嵐は、龍王池の別天地に住まう美しい御仏 までも奪っていった。
太平洋戦争のさなか、金属資源の不足により昭和16年には金属類回収(供出)が始まり、 戦局の悪化にともない鉄びんや鍋、釜、指輪や火箸、仏具、タンスの取っ手、そして寺院の梵鐘や 偉人の銅像なども鉄砲の弾や兵器に姿を変えていった。總持寺にも大梵鐘の供出命令がきたが、 梵鐘があまりにも大きすぎ運び出すことが困難だったため、その身代わりとして龍王池のほとりに立つ 放光観音像が供出されることになった。
昭和19年の春、全身を白い布で覆われた放光観音像は、僧侶たちが唱和する観音経と別れを惜しむ人々の涙に見送られて、この地を去っていったという。
昭和40年に交通安全の願いを込めて、 日産自動車川又克二社長の寄進、山脇正邦作による2代目の放光観音像が再建された。



*参考文献・サイト*
四川地域の造像例と霊験説話
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/27633/1/053.pdf

横浜市鶴見区第23回:總持寺今昔 観音像二題
http://www.city.yokohama.lg.jp/tsurumi/information/introduction/history/no23.html

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